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【エッセイ】タイタニック号と無線通信〔筆者:日本クラブ事務所長 前田正明 〕

04/08/24

  • 1.はじめに

    2023年になってコロナ禍のパンデミックも一段落して、アメリカ・マンハッタンで大規模なタイタニック号エキシビション(TITANIC. THE EXHIBITION:タイタニック号に残された私物など、200以上のアイテムを展示するイベント)が2023年3月から長期に渡って開催されました。

    写真1:TITANIC. THE EXHIBITION のプログラム

     

    タイタニック号沈没事故は世界最大級の客船の海難事故であり、氷山に衝突して沈没という惨事 は100年近く経ってもなお、人々の心を惹き付けるようです。この会場にも多くの観客が詰めかけていました。

    写真2:タイタニック号の当時の船内イメージ
    写真3:沈没したタイタニック号から引き上げられた 遺留品

     

    海難事故が起きた1912年4月14日(日)は素晴らしい一日の幕開けであったものの、タイタニック号と乗客乗員のうち1,500人強にとっては、船上での最後の日の出となりました。 実際、災難がすぐそこに迫っていたのです。タイタニック号はその日の夜、午後11時40分に氷山に衝突し、4月15日午前2時20分に穏やかな海に沈んでいったのです。

    図 1:タイタニック号の航行ルート 出典:Radio aboard the RMS Titanic

     

    タイタニック号沈没事故を題材にした、ジェームズ・キャメロン監督の大ヒット映画「タイタニック」が公開されて以来、タイタニック号が沈没した運命の夜の出来事が人々の想像力をかき立て、その話題に多くの関心が集まりました。

    1912年 4 月14日から 15日にかけて一体何が起こったのでしょうか?厳しい言い方をすれば、この出来事は 20世紀を迎えたばかりの最新かつ最高の技術を集結した造船・海運の大きな失敗といえましょう。いわば、最新の技術を集めた造船が沈没するはずがない、というような自信過剰に対する苦い歴史的教訓の1つと言えるかもしれませんが、この中で無線通信が果たす役割はどうだったのか、考察していきたいと思います。

    2.タイタニックにおける無線通信の位置づけ

    タイタニック号からの救難信号は、よく「遭難信号のSOSが初めて送信された 」と言われていますが、実際はその前に使用例*があるので、初めてではありません。通信士たちはマルコーニ社から派遣されていたため、当初は社内で取り決められている遭難信号CQDを使っていましたが、その後、遭難信号として規定されたばかりのSOSに切り替えて送信しています。

    (*1909年6月にアゾレス諸島沖で難破したスロバキア号の事故、もしくは1909年8月11日に米国沖でプロペラを破損したことで救助を求めたアラパホ号の事故。)

    実際に何が起こったのでしょうか?タイタニック号の通信士たちは、浸入した水が無線室に浸水するまで送信を続けたのでしょうか?彼らは船と一緒に沈んだのでしょうか?これらの疑問に対する答えと、この災難がもたらした英雄的行為や多くの失敗例は、米国上院公聴会と英国調査裁判所の 2 つの公式公聴会の記録からうかがい知ることができます。

    定常的な運航の場合、無線がまだ初期段階にあったため、マルコーニ社の通信士たちは、ほとんどの時間を有料顧客向けのプライベート・トラヒックの送信と中継に費やしていました。氷山に関する警告を含む船から船へのメッセージは、ほとんど参考情報として船橋 (操船を行う場所、ブリッジ)に伝えられるだけで、緊急性を伴うようなものとして伝達されることはありませんでした。 タイタニック号のライトラー二等航海士は、公表された報告書で、「まさにこのような遅れが致命的であり、あの素晴らしい船と多くの命が失われた主な原因となった」と書いています。

    「誰もが他人を非難したがるのです。しかし実際には、誰一人責められることはできません。氷山との衝突は、いくつかの小さな事故と『もしも』が重なった結果でした」と海軍史家のキット・ボナー氏は言っています。もっとも悲しい偶然は、タイタニック号の通信士ジャック・フィリップスが、救難信号を送信し始める30分前に、最も近くを航行していたカリフォルニア号の通信士が無線通信装置をシャットダウンしたことでした。この運命のいたずらがなければ、カリフォルニア号のほうが、最終的に救助船となったカルパチア号よりずっと先に現場へ急行できたはずです。

    当時、タイタニック号の無線通信士は「マルコーニ通信士」と呼ばれていました。 そう、無線電信の開発で知られるグリエルモ・マルコーニ氏は、1912 年に海事通信の会社を設立しました。通信士は全員、彼のために働き、彼は通信士を海運会社へ派遣したのです。タイタニック号の惨事では、無線通信とこれらの通信士が極めて重要な役割を果たしました。

    しかしながら、通信士は過重労働で、かつ賃金が低かったようです。 証言によると、フィリップスは、タイタニック号の航路から約30km南にある氷山に関するアメリカ本土からの警告をレース岬(カナダ・ニューファンドランド島)の無線局から受け取っていました。ところが、 彼には担うべき仕事が別にあったため、このメッセージは船橋には伝達されませんでした。

    氷山と衝突の約2時間半前、午後9時5分にカリフォルニア号は「我々は氷に囲まれて停船している」とタイタニック号に送信しました。 タイタニック号からの返信は「黙ってろ。忙しいんだ」でした。カリフォルニア号の通信士シリル・エヴァンスは、英国の事故調査に対し、「より大型、またはより高速な船が優先的に航行をしていたため、この拒否は必ずしも侮辱されたわけではない」と述べています。 エヴァンスはとにかく長い一日を過ごしました。その日の朝は午前7時から勤務していたので、午後11時30分に寝床に戻りました。

    タイタニック号の通信士は、6 時間オン、6 時間オフで働かなければなりませんでした。なぜなら乗客(少なくとも裕福な乗客)は、新しいサービスを介して家にメッセージを送信するために列をなしていたからです。 マルコーニ氏によれば、通信士の報酬は、食事と宿泊を含めて週 4ドルから 10ドル、12ドルという範囲でした。 それでも国内の同僚より報酬がかなり高かったため、これらのポジションの雇用に関して問題はありませんでした。

    興味深い点は通信士の年齢です。フィリップスは24歳、タイタニック号の2番目の操縦士であるハロルド・ブライドは22歳、カリフォルニア号のエヴァンスは20歳で、わずか6カ月の経験しかありませんでした。カルパチア号のハロルド・コッタムは21歳でした。

    1912年4月14日(日)午後11時40分、タイタニック号の見張りがベルを3回鳴らし合図を送りました。「何か見えたのですか?」という航海士の質問に対する答えは、「目の前に氷山があります!」でした。その後起こった出来事は、実際に2 人の通信士に直接的な影響を与えることではなかったのです。フィリップスは全力で積滞した電文の送受信を行っていました。ブライドが交代したばかりで、フィリップスが出番の準備をしていたとき、エドワード・スミス船長が現れて、「他船の救援を求む」と命令しました。

    4月15日(月)午前0時5分頃に救難メッセージの送信を開始しました。その後、フィリップスとブライドは船長に任務を解かれた後も持ち場に留まったのです。ブライドによれば、タイタニック号の無線は、船が断末魔に陥る午前2時20分頃の10分前まで機能していたと言います。フィリップスが主任通信士として任務に戻り、CQDの送信を開始し、続いてMGYの送信を開始しました。

    先ほども述べたように、CQD はマルコーニ社の従来の遭難信号であり、MGY はタイタニック号のコールサイン(無線局の呼出符号)でした。 SOS も使用されましたが、米国上院公聴会では、CQD が実際に略語かどうか、また国際慣例に従っているかどうかについても議論がありました。 マルコーニ氏は、これは国際慣例に従ったものではなく、従来から自分たちの企業の信号であると答えました。 同氏はさらに、ベルリンの会議で決定された国際救難信号はSOSだったと述べました。

    タイタニック号からの CQDの 呼び出しに対する最初の応答は、ドイツの船フランクフルト号からであり、約 320 マイル離れていたにもかかわらず、非常に強い信号を発していました。 この船の操縦士は明らかに混乱しており、タイタニック号の緯度と経度の位置が送信されてから20分後に「何が発生したのか?」と送信しました。事の重大さを認識していなかったのです。

    当時、船からの無線通信は重要なインフラではありませんでした。無線通信は、富裕層の乗客が家族などへメッセージを送ることに課金するビジネスでしたので、非常通信を司るという存在ではなかったと思われます。

    これは、ある意味、1995年に発生した阪神・淡路大震災時の携帯電話と類似しているような気がします。新技術が開花するときは、大災害や戦争などが契機となる場合が多く、無線通信が船舶での非常通信に威力を発揮するということも、タイタニック号の海難事故で証明されたようなものです。同様に携帯電話もインフラとしてはまだみなされていない初期の段階で、阪神・淡路大震災に遭遇し、情報伝達に大変な威力を発揮しました。

    3.タイタニックの無線局装置と現在も海底に眠る状況

    タイタニック号の無線電信装置は、マルコーニ社 からホワイト・スター・ライン社にリースされていました。先に述べたように、通信士のフィリップスとブライドもマルコーニ社からの派遣でした。24 時間体制で主に旅客電報の送受信を行いましたが,天気予報や氷雪警報などの航行メッセージも扱いました。

    無線室の隣にあるサイレントルームキャビン には、交流電流を生成するために使用される送信機や、モータージェネレーターなどの大音響を出す機器が収容されていました。当時の最新鋭5KWの回転スパークギャップ送信機が装備されており、通信はモールス信号で行われていました。 この送信機は当時世界で最も強力な送信機の 1 つであり、半径 350 マイル(563 km)の通信が可能でした。船の全長にわたる高架の T アンテナが送信と受信に使用されました。 このシステムは通常、 500 kHz(波長 600 m)を使用していました。

    写真4:タイタニックに建てられたアンテナシステム
    出典:http://www.astrosurf.com/luxorion/qsl-ham-history-titanic.htm

     

    ここで、タイタニック号の氷山への衝突から沈没までの無線通信の経緯(通信ログ)を見てみましょう。

    写真5:カルパチア号の電信記録 出典:TITANIC. THE EXHIBITION のプログラム

     

    時系列でみると、衝突から沈没までが2時間半程度のあっという間の出来事で、世界最大級の客船が沈没してしまったのです。当時新しく制定されたばかりのSOSの送信に最後の望みを託したのでしょう。

    写真6:Parks Stephenson 氏によってタイタニック号の無線室を CGI レンダリングで再現 出典:WIRELESS ABOARD THE TITANIC http://jproc.ca/radiostor/titanic.html

     

    上の写真は、タイタニック号の無線室をCGIレンダリングによって再現したものです。今回のタイタニック号エキシビションにて再現された無線室もおおむねこれに近いものです。姉妹船のオリンピック号の無線室は多くの写真があるので、それも参考にされているかと思われます。

    写真7:タイタニック号の無線室として唯一知られている写真
    出典:Titanic Encyclopedia, Science News & Research Reviews
    https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/titanic

     

    上の写真は、アイルランドのクイーンズタウンで下船した乗客が撮影したとされる、タイタニック号の無線室として唯一知られているもの です。

    海底深く眠る実際の無線室については、ドキュメンタリーチャンネル「ディスカバリーチャンネル」で報じられ、無線室内からの映像がいくつか放映されています。前述の「表1 無線通信の経緯」は、その時の技術顧問パークス・ステファンソン氏からの分析レポートの一部です。

    「無線室自体は、隣接する通信士の寝室とともに、沈没時に完全に破壊されました。部屋の元の境界は、頭上に残っている塗料の違いとぶら下がっている電気配線によって判断できます。

    通信士の机上の天窓はなくなり、頭上に穴が開いたままになっています。 部屋で見つかった唯一の機器は蓄電池用の充電配電盤で、デッキを覆う堆積物の上に裏向きになっており、まだ配線が接続されています。ほかのすべてのものが、明らかに沈没の際の衝撃と水流によって運び去られています。

    隣接するサイレントキャビンは、防音のために壁が厚くされていので、破壊を免れました。送信装置はほぼ無傷で生き残り、AC/DC 配電盤は壁の一部に取り付けられたままでした。 アンペアとボルトの文字盤のガラスは4つのメーターのうち3つは無傷で、文字も見えています。 ボードのAC側の開閉器は閉じていますが、DC 側の開閉器は開いています。これは、通信士のフィリップスが部屋を離れる前に意図的にステーションをシャットダウンしたことを示しています。

    4.CQDとSOS

    当時CQDとSOS は両方とも、タイタニック号の処女航海時に公認された遭難信号でした。先に述べたようにタイタニック号の事故でSOSが初めて使われたわけではありません。

    1906 年にベルリンで開催された国際無線電信会議(International Radiotelegraph Conference、現在のITUの前身)では、一般公共サービスに使用できる 2 つの波長として、 600m(長波)と 300m(短波)が規定されました。1912 年にロンドンで開催された国際無線電信会議では、これら 2 つの波長が再確認され、船舶が使用する通常の波長として 600mが指定されました。 救難信号は通常の波長(600mつまり500kHz)で行われることになっていたのです。

    1912 年条約の後、コールサインはより標準化され、最初の文字は会社ではなく国を表しました 。ただし、マルコーニ社が英国に拠点を置いていたため、英国は最初のコールサインの 1 つとして「M」を割り当てられました。今でも英国のアマチュア無線のコールサインの最初の文字は「G」だけでなく「M」も使われていますが、これはマルコーニ社の頭文字に由来するのです。

    5.タイタニック号の通信士 ジャック・フィリップス

    タイタニック号での通信の主役であるフィリップス通信士にスポットライトを当ててみましょう。

    ジョン・ジョージ・“ジャック”・フィリップス(1887年4月11日~1912年4月15日)は英国の船員であり、処女航海中のタイタニック号の上級無線通信士を務めました。

    写真8:タイタニック号の通信士、ジャック・フィリップス 出典:John ‘Jack’ Phillips was the man known for trying to save the Titanic https://www.news.com.au/lifestyle/real-life/true-stories/john-jack-phillips-was-the-man-known-for-trying-to-save-the-titanic/news-story/96b855fe4bbcbba59ad508c898002a93

     

    最後の夜、フィリップスは装置故障によって発生した、やり残しのメッセージの処理に非常に忙しかったそうです。 その結果、彼が入ってくる警告に応答できなかったことが、災難の主な原因として挙げられています。 蒸気船メサバが着氷警報を発したので彼はそれを認識しましたが、それを船橋に伝えることはできていませんでした。 近くにいたカリフォルニア号からの警告も完全に無視していたのです。 しかし、氷山に衝突した後は、フィリップスは他の船に援助を求めるために全力を尽くしました。

    フィリップスは英国・サリー州ファンコムで生まれ、5人の兄弟とともに、父親がファンコム・ストリートで経営していた呉服店で育ちました。彼は 1902 年に学校を卒業し郵便局で働き始め、そこで電信を学んだのです。そして、 1906 年 3 月にシーフォースでマルコーニ社の無線関連の訓練を受講し、5 カ月後の 8 月に卒業しました。 フィリップスの最初の任務はホワイト・スター・ライン社のチュートン号でした。

    1912 年 3 月、フィリップスはタイタニック号の処女航海に上級無線通信士としてアイルランドのベルファストに派遣されました。その後、 彼の部下として無線通信士のブライドが加わりました。フィリップスは航海が始まった翌日に25歳の誕生日を迎えました。

    衝突事故当日の彼の行動は、以下のようでした。21時30分頃、フィリップスは蒸気船メサバからタイタニック号の航路に大量の氷山と氷原があるとの警報を受信しました。 フィリップスは蒸気船メサバからの警告を認めましたが、レース岬の無線局にメッセージを送信し続けました。 蒸気船メサバの無線通信士はフィリップスが船橋に警告の報告を行ったという返信を待っていましたが、フィリップスはレース岬とのメッセージ送信を続けました。 このメッセージはタイタニック号が受け取った最も重要な警告の1つでしたが、船橋に届けられることはありませんでした。

    22時55分、カリフォルニア号唯一の無線通信士エヴァンスは、彼らが氷に囲まれ停止したと報告しています。 カリフォルニア号の比較的近い距離では、その信号がフィリップスの耳に強くてうるさかったのに対し、レース岬からの信号は微弱でした。フィリップスはすぐに「出て行け、黙れ、レース岬とで仕事中だ」と返信しました。この交信も重大な結果をもたらしたと言えるでしょう。

    まず、エヴァンスは氷山に注意していれば、タイタニック号の衝突が回避できると警告していたのです。 第二に、カリフォルニア号がタイタニック号に最も近い船だったのですが、 エヴァンスによって無線通信装置のスイッチが切られてしまったために、タイタニック号が緊急の援助を必要とした場合に、フィリップスはカリフォルニア号と連絡を取るすべがありませんでした。カリフォルニア号の乗組員は0時45分にタイタニック号が打ち上げた照明弾を目撃し、スタンリー船長を起こしましたが、船長は照明弾を無視することにして、ベッドに戻りました。

    一方のタイタニック号は沈み始めたのです。 タイタニック号のスミス船長が無線室に入り、タイタニック号の推定位置を伝え、救難信号を送るようフィリップスに告げました。真夜中を少し過ぎた頃、スミス船長が再びやって来て、もう一度救助要請を送るよう告げ、フィリップスは救難信号、コードCQDを送信し始め、ある時点で新しい遭難信号のSOSを送信しました。

    電力は午前2時直後にほぼ完全に停電し、スミス船長は戻ってきて通信士たちに任務を解くことを告げました。その後二手に分かれ、ブライドが前方に、フィリップスが後方に向かうことになりましたが、この時、ブライドがフィリップスに会った最後となったのです。タイタニック号の沈没事故の後、フィリップスは出生地であるファンコムの墓地に埋葬されています。

    6.タイタニック号とニューヨーク

    アメリカ・ニューヨークは、この海難事故の後に救助された乗員・乗客が収容・援助されたところでしたので、メモリアルな場所がいくつか残っています。その中の1つ、タイタニック記念灯台は、氷山と衝突したことによって沈没したタイタニック号の乗客、士官、乗組員を追悼するために捧げられた灯台および記念碑です。

    写真9:タイタニック記念灯台の落成式(1913年4月15日)
    出典:About the Titanic Memorial Lighthouse
    https://southstreetseaportmuseum.org/about-the-titanic-memorial-lighthouse/

     

    この灯台は,多くの命が失われた悲劇の最中に示された英雄的行為をたたえるために作られたものです。寄付をつのり建物の上に灯台を建設し,命を落とした人々を追悼することになりました。裕福な社交界の人々は小切手を切り,小学生はペニー(1セント)やニッケル( 5 セント)を寄付しました。タイタニック号の沈没から1年後に灯台は奉献されました

    現在はシーポート博物館に移設されていますが、移設先のピーター・スタンフォードCEOは「タイタニック号の悲劇とその歴史への教訓は、今日でも 1912 年当時と同じくらい現実的かつ重要です」と述べています。

    7.おわりに

    今回のエキシビションの最後の展示場所に、沈没事故で亡くなった乗員・乗客の約1,514名の全氏名と、その時の年齢が大きく映し出されていました。見学者は食い入るように氏名を眺めていましたが、改めてその悲劇の甚大さがひしひしと感じられました。この事故における無線通信の活躍が、その後の海運や航空の発展に大きく寄与していくわけですが、やはりこの悲劇の教訓を忘れてはならないと強く感じながらエキシビションを立ち去ったのでした。

     

    <参考文献>
    (写真1)Titanic -The Exhibition- (New York, 2023)
    (写真2)WIRELESS ABOARD THE TITANIC by ALLAN BRETT VK2EBA, Jerry Proc VE3FAB and Parks Stephenson ( http://jproc.ca/radiostor/titanic.html)
    (写真3)NIST Web site (https://www.nist.gov/blogs/taking-measure/nist-and-titanic-how-sinking-ship-improved-wireless-communications-navigating )
    (写真4)The Halifax Amateur Radio Club (Radio aboard the RMS Titanic (How it worked Effect of radio on the the disaster Effect of the disaster on radio de Fred Archibald, VE1FA)
    (写真5)Interview for Fred Archibald, VE1FA
    (写真6)WiKI Titanic https://titanic.fandom.com/wiki/Main_Page
    (写真7)Handbook of Technical Instruction for Wireless Telegraphists
    (写真8)Handbook of Technical Instruction for Wireless Telegraphists著者: John Claybough Hawkhead
    (写真9)WikiPedia En (https://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Phillips_(wireless_officer) )

     

    *このエッセイは電気通信2024年1月号に掲載されたものを、ウェブサイト用に編集しました。

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