JAPANESE | ENGLISH

はじめてご利用の方はこちら

ニュース

【エッセイ】超再生ラジオ・スーパーヘテロダイン・FMラジオの発明者「悲劇の天才発明家 エドウィン・ハワード・アームストロング」〔筆者:日本クラブ事務所長 前田正明 〕

01/09/23

  • 1.はじめに

    エドウィン・ハワード・アームストロング(以下アームストロング:1890 年12月 18 日 – 1954 年 1 月 31 日)のことは、私の家の近くのYonkersの出身であることはおぼろげながら知っていました。

    エドウィン・ハワード・アームストロング (Edwin Howard Armstrong 1890-1954)

     

    その住居は史跡と指定されていたのですが、火事によるダメージで取り壊されて現存しません。

    アームストロング邸

     

    一部が公園となり、そこに彼の碑を残すのみです。その碑には “The Man Who Made Radio Sing”(ラジオを歌わせた男)と書かれています。調べていくうちに、彼がいかに偉大な発明家であったかを改めて理解することができました。

    アームストロングの功績をたたえた碑

     

    彼のおかげで、マンハッタンはFMラジオのるつぼといえるような状態で、さまざまなFMラジオ局が乱立しています。アームストロングは間違いなくテレビ・ラジオ時代に最も多くの重要な発明を行った発明家の 1 人でしょう。彼の主な発明は、再生ラジオ、超再生ラジオ、スーパーヘテロダイン、FM ラジオでした。残念なことに、彼の人生の後半は他の発明者、特にリー・デ・フォレスト(以下フォレスト)との特許権を巡る激しい訴訟と自分の雇用主であったRCA(Radio Corporation of America)との係争に追われており、最後にはマンハッタンで自ら命を絶ち、生涯を終えているのです。

     

    2.誕生から結婚まで

    アームストロングは、1890 年にニューヨーク市チェルシーで、ジョン・アームストロングと妻のエミリー・スミスとの間に生まれました。父親は実業家として成功し、母親は引退した学校の教師でした。彼はコロンビア大学で学び、後にそこで教授を務めました。彼の妻のマリオンは、かつてRCA の社長であるデビッド・サーノフの秘書として働いていました。夫婦には子供がいませんでした。住居跡地であるヨンカースは、出身地チェルシーからの転居地です。

     

    3.コロンビア大学時代

    アームストロングは、アイビーリーグの1つであるコロンビア大学の3年生の時に再生回路(1914年に特許を取得)を、その後、超再生回路(1922年に特許を取得)、およびスーパーヘテロダイン受信機(1918年に特許を取得)を発明しました(但し、誰がスーパーヘテロダインラジオを発明したかについては論争があり、例えば、ウォルター・ショットキーも独自に発明したと主張しています)。彼は第一次世界大戦中の陸軍在籍時にスーパーヘテロダインを開発しました。これは彼が少佐くらいの時で、その後、彼の友達は皆、彼を呼ぶ時には必ず「少佐」を付けていたとのことです。

    アームストロング氏による再生回路

     

    アームストロングの発明の多くは、最終的に特許訴訟で他の発明者に激しくクレームされるようになります。特に、彼が1914年に「ワイヤレス受信システム」として特許を取得した再生回路は、その後 1916 年にフォレストが特許を取得しました。その後、フォレストは自分の特許権をAT&Tに売却しました。

    これにより、1922年から1934年にかけて、アームストロングは自分とRCAとウェスティングハウスとの間での特許係争に巻き込まれました。この特許訴訟は、12年というその頃の最長の訴訟でした。彼は訴訟の第1ラウンドで勝訴し、第2ラウンドで敗れ、第3ラウンドで膠着状態となりました。米国の最高裁判所で、フォレストは再生受信回路に関する特許を与えられましたが、これは同裁判所による技術的な理解不足であると信じられています。

     

    4.FMラジオ

    再生回路の訴訟が続いていたにもかかわらず、アームストロングは別の重要な発明に取り組んでいました。コロンビア大学で働いていた時、彼は周波数変調 (FM)を発案し、1933年に「無線信号システム」というタイトルで特許を取得しました(米国特許 1941066)。彼は振幅ではなく、周波数を変化させることで変調を掛けたわけです。 FMラジオ受信機は、当時主流だったAMラジオよりもはるかにクリアで雑音の無い音質を提供できることがわかりました。しかし、AMラジオのビジネスを破壊する恐れのあるFMラジオは、アームストロングの当時の雇用主であるRCAにとって極めて都合の悪いものでした。彼が1935 年に技術のデモンストレーションを行った後、テレビ機器を設置するためという理由で、彼はRCA のエンパイア・ステート・ビルディングのオフィスからFM送信機器を撤去するよう求められました。

    アームストロング氏が手掛けたFMラジオ局W2XMNの紹介写真(1940当時)

     

    1937年、アームストロング は、ニュージャージー州アルパインにある40キロワットの放送局である最初のFMラジオ局 W2XMNのオペレーションを開始し、AMラジオ局よりも消費電力が少ないにもかかわらず、100マイル(約161km)離れた場所でもはっきりと聞こえることを証明しました。ところがRCAは、FMラジオが優勢になるのを防ぐ法律、またはFCC規制の変更を求めるロビー活動を開始したのです。 1945年6月までに、RCA は FCC に対して、始まったばかりのテレビへの周波数の割り当てを強く要望し、FCCにFMラジオの周波数を42~50MHzから88~108MHz(現行)に移行させ、新しいテレビ・チャンネルを40MHz帯に割り当てることに成功しました。FCC のこのアクションにより、アームストロング時代のすべてのFMラジオが一夜にして利用できなくなり、RCAのAMラジオのビジネスが保全されたのです。さらに、RCAはFM ラジオの発明も主張し、その技術に関する独自の特許を取得しました。 RCAと彼の間の特許争いは長く続きましたが、法廷でのRCAの勝利により、彼は米国で販売されたFMラジオの特許使用料を請求できなくなりました。しかも彼のFMラジオへの執念と特許係争での消耗により、彼がこれまでに築いた数少ない親密な個人的関係の1つである彼の結婚も破壊されてしまったのです。

     

    5.アームストロングの最期

    1954年1月31日、コートと帽子を身にまとったアームストロングは、絶望と孤独に追い込まれ、ニューヨーク市のアパートの13階の窓から飛び降りて自殺しました。彼の未亡人マリオンは、彼の死後にRCAとの特許係争を引き継ぎ、最終的には1967年に勝訴しています。米国においてAM帯域の飽和状態が生まれるまでに彼の死後数十年がかかり、且つFMラジオが放送局として利益を生むようになるまでにはさらに時間を要しました。しかし、今日FMバンドの幅広く利用されていることを見ると、アームストロングの発明とその才能は、最終的に市場で証明されたと言えるでしょう。現在彼はマサチューセッツ州エセックス郡の墓地に埋葬されています。

    死亡記事

     

    6.栄誉を讃える受賞の数々と故郷にある碑

    1917年、アームストロングは現在のIEEE(Institute of Electrical and Electronics Engineers)メダル・オブ・オナーであるIRE(the Institute of Radio Engineers)の最初の受賞者となりました。National Inventors Hall of Fameの一員となりましたし、1983年には米国切手にもなりました。ITUは1955年に「家庭用電化製品の基礎を築いた彼の貢献と開拓者精神」を認めて、The Consumer Electronics Hall of Fameに彼を追加しました。 コロンビア大学のアームストロング・ホールは、彼に敬意を表して命名されました。ブロードウェイと112 番街の北東の角にあるこのホールは、同大学が購入した後、彼の名前を冠した研究スペースに改装されています。

    アームストロングの切手(1983)

     

    私は彼の碑を見るために、我が家から車で20分程のHudson Fulton Memorial Parkに出掛けました。ハドソン川がよく見える小高い所にある公園で、彼の碑は入り口近くの壁に設置されていました。「新しいな」と思って調べてみると、2013年に没後60年を記念して新規に作成されたもので、ヨンカース市の市長などが参加して、除幕式も開催されています。ハドソン川を眺めながら碑の場所に立ち、「あっ」と思いました。そこから対岸のアームストロング・タワーがよく見えるのです。各種の資料のどこにもそんな記述はありませんが、彼は自分の家からハドソン川を眺めながら、対岸にタワーを立てればマンハッタンやハドソンエリア全域にFMの電波がよく届く、と考えていたのかもしれません。

    碑から望めるアームストロング・タワー

     

    7.アームストロング・タワー

    現在のアームストロング・タワー

     

    彼の碑からすぐそこのように見えるアームストロング・タワー(以下タワー)に行くには、少しマンハッタン寄りに走り、有名なニューヨークとニュージャージーを結ぶGeorge Washington Bridgeを渡って対岸に行かねばなりません。土曜日でしたので、20分ほどで到着しました。現在は地名であるアルパイン・タワーと呼ばれています。アメリカでは鉄塔はインフラ会社がまとめて所有していることが多いです。携帯キャリアや無線関係のオペレータはそういうタワー会社から設置場所をレンタルします。このタワーもK2タワーという会社が所有しています。現在は、FM用というより、携帯電話の基地局用アンテナや各種移動無線のアンテナが設置されています。ただ、最初のFM実験局であるWA2XMN(42.8MHz)は現役で、先述したアームストロングの碑の除幕式はここからライブで中継されたということです。

    現在のアームストロング・タワーの看板

     

    8.おわりに

    アマチュア無線にもラジオ放送にも極めて関連のある発明を行い、このハドソン川エリアが生んだ立身出世の人、アームストロング氏にこのような葛藤と悲劇があったとは知りませんでした。ここでご紹介した話は米国の訴訟社会でありがちなことですが、それに振り回された天才の悲劇と言えるでしょう。自らの雇用主との係争というのもビジネスとはいえ何とも悲しい結末ですね。

    彼の功績を記すものは、ご紹介したハドソン川沿いのヨンカースにある碑、川の対岸にあるFM放送用のアームストロング・タワーとコロンビア大学の研究施設のみです。しかし、何より、世界中のハム、そしてラジオリスナーがFMを利用する現状が彼の偉大さを示していると思われます。

    A plaque honoring FM radio inventor Edwin (Photo Credit: Steve Klose)

     

    (参考文献)
    Read the Plaque
    Columbia 250
    New World Encyclopedia:

    *このエッセイはCQ Ham Radio誌2022年12月号に掲載されたものをウェブサイト用に編集しました。

イベントカレンダー

  • S
  • M
  • T
  • W
  • T
  • F
  • S
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  •  
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
バナー広告
ご希望の方はこちらへどうぞ。