【特別講座】クラシック合唱曲の最高峰・バッハロ短調ミサ入門講座
プロテスタント信者だったバッハが晩年に心血を注いで書き上げたのは異例にもカトリックのミサ曲でしたが、それは数ある合唱曲でも至高の名曲となりました。NY随一の名門合唱団と指揮者が5月8日にカーネギーホールでこの曲を演奏するのに合わせ、初めての方でも2時間の大曲を楽しく聴けるようなレクチャーを行います。
【開催日時】
5/1(月)午後6時半〜8時
5/2(火)午後4時~5時半
※レクチャーは二回開催予定。内容は同じですので、ご都合に合わせてご参加ください。
【参加費】
会員:$20、一般:$30
講師:伊藤玲阿奈
指揮者。1979年、福岡県生まれ。ジョージ・ワシントン大学国際関係学部を卒業後、音楽家の道へ。ジュリアード音楽院の夜間課程などで指揮を学び、アーロン・コープランド音楽院を卒業(修士号)。2008年、NYにてプロデビュー後、カーネギーホールや世界遺産・エウフラシウス聖堂(クロアチア)など、世界各地で指揮。2014年、「アメリカ賞」(プロオーケストラ指揮部門)を日本人初の受賞。2020年、ロックダウン中に執筆した「『宇宙の音楽』を聴く」(光文社新書)を上梓。武蔵野学院大学客員准教授(大学院)。別名:伊藤玄遼(いとう・はるか)
第1回 職場の悩みから生まれた最高傑作
伊藤玲阿奈
長年バッハを深く聴き込んだ愛好者ほど、「マタイ受難曲」といった傑作を差し置いて、「ロ短調ミサ」をバッハの最高傑作とみなす傾向があります。その理由はレクチャーでお伝えするとして、かくも歴史的な作品が生まれたきっかけは、そもそも何だったのでしょうか?
作曲し始めた直接のきっかけは意外に意外、職場の悩みを解決するためでした。
当時バッハはライプツィヒ市の音楽監督(トーマスカントル)という重職にあり、市内に 4つある教会の礼拝音楽の作曲と演奏、そればかりか各教会に付属する学校生徒の音楽教育にまで責任を負っていました。直属の上司はライプツィヒ市長や評議会であったものの、各教会の聖職者や付属学校の校長とも上手くやっていかなければならない立場だったわけです。
しかしながら、バッハは後世に「音楽の父」として神格化されるほどの大芸術家。凡人の言うことなど理解できるはずがありません。しかも、おひつじ座ゆえか(?)非常に情熱 的、悪くいえば頭に血が上りやすい性格でした。一度こうと決めたら絶対に曲げないうえ、若き日には喧嘩相手に決闘を申し込んだことさえあったのです(ひっくり返って負けてしまいましたが)。
在職10年目になろうとする頃には各方面で衝突をかかえ、さすがの彼も悩み始めていたのでした。 それを解決すべく思いついたのが、ライプツィヒの領主であるザクセン選帝侯、つまり同僚も上司もひれ伏す最高権力者のご機嫌をとって、その庇護下に入れてもらうという策でした。すなわち、「ザクセン選帝侯の宮廷作曲家」という直属の部下たる称号をえること で、まとめて黙らせてやろうというわけです。
1733年、バッハはその計画を実行。2つの曲をザクセン選帝侯へ献呈します。そして、それこそが「ロ短調ミサ」初めの2曲なのです(残りは主に晩年にまとめられ、現在の形になりました)。
かくして最高傑作は生まれたのですが、さてさて、その計画は成功したのか否か?
続きはレクチャーで。
画像:バッハ在職時の職場、ライプツィヒ市聖トーマス教会とその付属教会学校
第2回 まるで暗号!? 天才が細部にまで捧げた情熱
伊藤玲阿奈
先日亡くなられた坂本龍一さんがバッハに深く傾倒したように、あらゆるジャンルの音楽家に神のごとき存在として尊敬されるのが「音楽の父」ことバッハです。
ところが一般の方にはそこがよくピンと来ません。意気込んで「ロ短調ミサ」を聴き始めたとしても、たいてい退屈して眠たくなるはずです。万人受けする分かりやすい音楽を期待すると、見事に裏切られてしまいます。
というわけで、レクチャーでは聴き方や聴きどころを中心にお伝えするわけですが、今回はバッハの凄さの中でもレクチャー内であまり言及できない一例をご紹介しましょう。
「ロ短調ミサ」の冒頭は、魂をえぐるような悲痛な叫びから始まります。その歌詞は「キリエ・エレイソン」、ギリシャ語で「主よ、憐(あわ)れみたまえ」という意味です。2人の盲人がイエス・キリストに苦しみを訴え続けたときの言葉が元になっています。
さて、楽譜を見てみると、この冒頭楽章は全部で14声部(合唱5声部・オーケストラ9声部)あり、小節数は126小節となっているのですが、実はこれには常人が思いもつかない理由があるのです。
ABCD・・と続くドイツ語のアルファベットに、「Aは1」「Bは2」「Cは3」・・と順に数字を当てはめてみます。するとBACH(バッハ)は「2・1・3・8」となり、これを全部足すと14となります。
すなわち、声部数「14」はバッハを表し、小節数「126」はキリスト教で神を象徴する数である「3(三位一体)」の3倍に自分の名前をかけたもの(3x3x14)。つまり「主よ、憐れみたまえ」と神に向かい叫んでいるのは彼自身であるということ。
それが次の楽章である「クリステ・エレイソン(キリストよ、憐れみたまえ)」では、声部数が4(歌手2人、オーケストラ2声部)となり、楽しげな音楽に変化します。聖書にある通り、2人の盲人がキリストに癒され、4つの目が開いた喜びを表現しているのです(くしくも晩年のバッハは眼病に悩まされ、失明同然となりました)。
このような数学的・象徴的なテクニックが山のように用いられているのが「ロ短調ミサ」なのですが、さすがにマニアックに過ぎるのでレクチャーではあまり触れません。
とはいえ「神は細部にやどる」――後世の音楽家がみな敬愛する天才が、細部の細部にまで霊感を巡らせた作品の魅力を90分でお伝えできればと思います。
画像1:「ロ短調ミサ」冒頭の楽譜。五線譜の段数から14声部あることが分かる。
画像2:第2楽章は4声部となっており、これにも意味がある。
第3回 人生の最後に願ったもの
伊藤玲阿奈
「ミサ」というのはカトリック教会で毎日行われる儀式です。楽曲としての「ミサ曲」は、その儀式における特定の場面で歌われるもので、イエスが生きた時代に使われたラテン語で歌われ、典礼文(ミサ通常文)と呼ばれるその歌詞はあらかじめ定められていました。
長いことドイツはミサを行うカトリックの国でしたが、1517年からの宗教改革でプロテスタント(新教)が起こってからは新旧の宗派が混在するようになります。バッハ自身は熱心なルター派信徒であり、生涯ルター派に属する宮廷や教会で勤務しました。
その彼がカトリックのミサ曲を作曲するとは、どのような風の吹きまわしでしょう?
第1回で述べたように、直接のきっかけは職場の悩みを解決する目的で、最高権力者たるザクセン選帝侯にミサ曲のうち「キリエ」「グロリア」の2曲を献呈したことでした。
バッハが奉職したライプツィヒ市はルター派であり、そこの領主たる選帝侯も本来はルター派です。ところが、当時の選帝侯はポーランドの王位も兼ねたいがため、ひとりだけカトリックに改宗していました。こうした特殊な政治的事情からバッハのミサ曲が生まれてくるわけです。彼が38歳でライプツィヒに赴任して10年ほど経った頃のことでした。
さて、それからさらに15年ほど時は流れます。
60歳を過ぎ、人生の終着点が見え始めたバッハは、どういうわけか完全な形のミサ曲を作ることを思いつきました。カトリックの定めによれば、ミサの儀式を執り行うには「キリエ」「グロリア」以外にも曲が必要とされます。
長年の無理からきた眼病に苦しむバッハ老は、おもに過去に書いた自作品に手を加えることで残りを仕上げていきました(旧作の音符はそのままに、歌詞だけをミサ典礼文に変えたりした)。最近の研究では死の直前までその作業が続けられたことが分かっており、まさに最後の最後までミサの完成に執念を燃やしたのです。
敬虔なルター派信者だったバッハ。なのにどうして人生最後の仕事としてカトリックのミサを世にのこそうとしたのか?
続きはレクチャーでお話しましょう。
画像:「ロ短調ミサ」終曲の自筆譜より。眼病に苦しめられながら書いたと思われる。